ディズニーランド誘致の実現(1972年~1980年)

レジャー施設「オリエンタルランド」実現に向けて、1972年から1973年にかけて行われた欧米レジャー施設の調査の結果、当社が具現化すべき構想の核となる施設は米国の「ディズニーランド」においてほかないという結論に達しました。
 

そして1974年2月、当社はディズニー社へ書簡を持って正式に誘致を申し入れ、ディズニー首脳の来日視察を要請しました。さらに同6月には社長の川﨑がディズニー社を訪問し、ディズニー社社長と会談を行い、ディズニーランドの日本誘致を希望する旨を改めて表明するとともに、首脳の来日を再度懇請するなど、ディズニーランド誘致に向けた動きは一気に加速していきました。

そして1974年7月、ディズニー社に対し、浦安開発地域の適地性などついてまとめた研究レポート「Oriental Land Feasibility Study Report 1974」を提出し、首都・東京に隣接する、千葉県浦安地区がディズニーランド建設に好適地であることをアピールしました。
 

当社の誘致活動に応えて、ディズニー首脳の来日が実現したのは、1974年12月のことでした。

あらゆる準備を万全に整え、ついに12月4日、運命の日を迎えました。当日は会場となった帝国ホテルで、ディズニー社視察団に対して、浦安地区へのディズニーランド誘致計画に関するプレゼンテーションを実施しました。浦安地区とその周辺の航空写真やマーケティングデータなどを示し、長期的な日本市場価値の有望性、開発予定地が日本の中心である東京エリアの一角に位置する点などを訴えました。

帝国ホテルでのプレゼンテーション終了後は、当時はまだ数少なかったサロンのついたデラックスバスにディズニー社一行を乗せ、浦安地区を案内しました。さらに当社役員とディズニー社首脳はヘリコプター3機に分乗し、開発用地を上空から視察。首都圏に隣接していること、三方を海や河川に囲まれており非日常性が高いことなど、ディズニーランド用地としての適性や特徴を説明しました。一行は、とりわけこの航空視察に大きな関心を示しました。
 

2日後の12月6日。両社の間で会談が持たれ、当社はディズニー社より、「オリエンタルランド社とともにディズニーランドのテーマパークを建設する可能性を追求したい」旨の表明を受けたのです。日数にして3日の出来事でしたが、雲をもつかむような時から、長い年月と誘致実現に向け情熱を注いだ当社メンバーの長年の苦労が素晴らしい形で報われ、川﨑が長年にわたり描き続けた夢が、ここにおいて「基本合意」という形で結実したのです。

また、特筆すべきは3日というスピードで決断するディズニー社の判断力や、当時JR京葉線や湾岸道路もなかった埋立地を選ぶ戦略的先見性であり、こうした経営マネジメントやそれを支える論理的な思考に、当社としても強い感銘を受けました。
 

基本合意後に着手した作業は、開発用地がディズニーランドタイプのテーマパークを建設・運営する上で適しているかどうかの検討作業でした。この第1フェーズの作業は1975年1月に開始。約9カ月後、ディズニー社は第1フェーズの作業を「オリエンタル・ディズニーランド構想」としてまとめ、千葉県浦安地区をディズニーランドタイプのテーマパークの建設に適しているという結論とともに、それに基づくサイト開発プランを示しました。

当社とディズニー社は作業を次のフェーズに入るための条件交渉を数次にわたり行い、1976年6月には第2フェーズ検討作業の契約を締結。「オリエンタル・ディズニーランド・プロジェクト」は、いよいよ具体的なデザイン段階へと進んで行きました。
また、1977年3月にはテーマパークの名称を「東京ディズニーランド」と、正式に決定しました。
ディズニー社による第2フェーズの検討作業は1年以上を要し、1977年9月に当社に対するプレゼンテーションが行われました。
こうしたパーク建設に向けた具体的な検討作業と並行して、ビジネス条件の交渉も進められました。当社の悲願であるディズニーランドの誘致という夢と、ビジネス条件交渉という現実の間で、時間をかけ幾度となく協議を繰り返し、また、時に緊迫した交渉を経て、1979年4月30日、カリフォルニア州バーバンクのディズニー本社において、当社 髙橋社長とディズニー社 ウォーカー社長との間で、パーク設計、建設、運営に関する内容が盛り込まれた「東京ディズニーランドの建設および運営に関する契約」(基本契約)が調印されました。基本合意以降、実に5年に渡る歳月の中、両社は目標に向かって粘り強く協議を続け、これをもって開業に向け大きな一歩を踏み出しました。

一方、ディズニー社との契約調印をひかえて直面していたのは、東京ディズニーランド・プロジェクトを推進するための資金繰りです。数百億円とされていたパーク建設資金は、思うように調達が進みませんでした。
 

資金調達に奔走する日々が続くなか、東京ディズニーランド事業を県政の事業の大きな柱と位置付けていた千葉県の後ろだてを仰いだ当社は、1979年4月、当時の沼田副知事とともに訪れた日本興業銀行(当時)に温かく迎え入れられました。東京ディズニーランド・プロジェクトを“こころの産業”と位置付けた同行の呼びかけにより、22の金融機関による協調融資団が結成され、プロジェクトの資金調達に大きな足掛かりを作ることができたのです。1980年8月に結成されたこの協調融資団なくして、今日の東京ディズニーリゾートは存在しなかったと言っても過言ではないほど、当社にとって大きな出来事でした。

このようにして夢に向けて大きく前進した当社は、1983年の開業に向けて着々と準備を進めていきます。